「新政府の一員に」という徳川慶喜の希望を絶った出来事
幕末京都事件簿その⑤
◆「錦の御旗」の威力の大きさ
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽の小枝橋で旧幕府軍と薩摩藩兵の間で、小競り合いが起き、強硬に通ろうとした旧幕府軍に対し、薩摩側が発砲して戦闘が始まった。鳥羽での大砲の音は南東2.5㎞の伏見にまで届いた。これをきっかけに、御香宮の薩摩軍、長州軍も攻撃を開始。旧伏見奉行所に陣取っていた会津藩士や新選組との間で、激しい戦闘が始まった。奉行所の旧幕府軍の陣地に向けて、薩摩藩が東の高台から砲撃し、その砲弾が奉行所の火薬庫に命中し、大爆発を起こした。奉行所は炎上し、会津藩兵や新選組は敗走した。
この日、鳥羽の戦い、伏見の戦いともに薩長軍の勝利に終わったが、翌4日、薩長軍はさらに秘策を打ち出した。朝廷が仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやあきひとしんのう)を征討大将軍に任命し、薩長軍に「錦の御旗」を与えたのだ。この時点で「錦の御旗」を高々と掲げる薩長軍は「官軍」となり、旧幕府軍は「朝敵」となった。「錦の御旗」の威力は大きく、旧幕府軍は急速に戦意を失ってしまう。慶喜は密かに江戸に逃亡し、旧幕府軍は総崩れとなった。
この戦争で、薩長軍すなわち新政府軍は、約110名の戦死者を出し、旧幕府軍側は倍以上の約280名が命を落とした。「鳥羽伏見の戦いは戊辰戦争の緒戦であり、この後、戦いは遠く箱館まで場所を移しながら続いていきます。戊辰戦争でも多くの血が流されましたが、これは近代日本に生まれ変わるための、産みの苦しみだったと言えるでしょう」と木村さん。
戊辰戦争における新政府軍の勝利、そして徳川幕府の終焉により、天皇を中心とする中央集権国家、近代日本が生まれたのである。
〈雑誌『一個人』2017年12月号より構成〉
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